HAPPY-Medi・・・糖尿病な私と医療のハザマ

幸せな医療?                               ~Happy mediume~どちらかに偏らず程よいこと                    

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「拒否」の反対側?

関節痛が始まって、祝・一周年(苦笑)
ここのトコ、この話題ばかりとなってました。
未だに原因はよく分りませんが、とりあえず「老化」と言うことにしておいて
いーかげん続き(1型と言われて凹む、その後)に戻ってみましょう・・・

そうです、キューブラー・ロスさん曰くの「悲嘆の五段階」によれば、
次は「受容」と言うものがそろそろやってくるハズ
(受容のイメージ:天から光がさす感じ

しかしながら、一向にその気配がない
ってか、そもそも「受容」って何?どう言う状態を言うのだろうか。

病気に前向きに向き合えること?
治療をきちんと頑張ること?
病気をマイナスに考えないこと?
「病気になって良かった」などと思えること?

確かに「拒否」や「否定」の状態は、分りやすい。
でも、それを抜け出したらみんな「受容」なんだろうか。
「受容出来るのが良い」って考えていたけど、そんな単純なこと?
そんな簡単に、一言で表されるものでは無い気がしてきた

以前のブログにも書いたように(→「治療中断の言い訳」)

患者は何も病気だけが、人生の要素ではない。
他の悩みがあり、反対に喜びがあるかもしれない。
そしてそれらは綿密に絡み合い、切り離して考えることは出来ない。

もし、他の悩みが重ければ、そちらに気をとられて
病気の重みは低下するかもしれないし、
悩み事がボチボチであれば、相まって病気のマイナス面が
増幅されるかもしれない。

反対に、他にとてもプラスの、幸せの要素があった場合
病気にもプラスに働くだろうし
その時は「私、病気をプラスに考えられてる」と思うかもしれない。

でももし、合併症が起こってしまったら、素直に
「これでよかった」と思えるだろうか?

そう、人生は色んな波がある
だから、その波に合わせて病気に対する思いも、揺れてしかるべきかと。
(揺れない人もいるんでしょうけど
やっぱり、ゆ~らゆら。ハザマで揺れる私です。

しかもその「思い方」と言うのは、結局その人の性格が表れる。
病気が原因でそう「思う」のでなく
その人の性格が、病気を通し投影され、表現されているのだと。

そう思うと、ますます「受容」が分らなくなってくるのだ
ありていに言えば、「糖尿病」と言う異質なものを受け入れる、と言うより
糖尿病である自分自身を認める、つまり「自己肯定」の作業なのだろうか。。

とか何とかかっこつけちゃって
次回は、久しぶりに血糖値について、いってみましょうか

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気持ちのベクトル

先日、「網膜症」の宣告(と言うと少し大袈裟ですが)を受けてしまった私。

一時的な出血かもしれないが
やはり(と言うか当然)高血糖の影響は、静かに、そしてじわじわと
体を蝕んでいるのだなぁ、と思う。

入院時の検査では、動脈硬化を疑う結果だったが
「動脈硬化が起こっています」と言われるよりも(30代だけど)
「単純網膜症」とは言え「眼底出血」と言う事実を突きつけられる方が
そのダメージは大きい気がします。

と言うのはきっと、その先が「失明」につながるからでは、と思う。
(動脈硬化だって、心筋梗塞や脳梗塞が待っているのだけど)

どの合併症が良いか?
(まぁ良い訳じゃないし、不毛な話だが)
まだ実体験してない現在の、ぼんやりとした考えでは
私は、「失明」が一番恐怖かもしれない。
(実際に他の重篤な合併症が出れば、考えは変わるだろうが)

その恐怖から「網膜症」は今まであまり考えないようにしていた。避けていた。
合併症についての記事なども
「網膜症」については読み飛ばしていた感がある。

でも、今回の事で「もしかしたら将来失明するかもしれない・・・」
と実感し、否応も無く考えてしまう訳で。

今、自分が見えている視覚情報が無くなったとしたら・・・

そう思うと、何気ない風景でも「目に焼き付けておこう」と
かけがえの無いものに思えてしまう。

視覚が無くなっても「聴覚」「触覚」「嗅覚」などの情報から
鮮やかな画像が、頭の中で再現できるように。
今のうちに、見ておけるものは見ておくべきなのか、と。

例えば失明しても音楽は聴けるし、楽器は弾き続けられるだろう(楽器やっててよかった)。
しかし、絵は描けないし、見ることは出来ない。
他にも視覚が必要なアクティビティー(登山、ダイビングなど)は困難になる。

それ以前に、日常生活や仕事はどうするよ??って
それが一番問題です
(素朴に、血糖測定とかちゅーしゃとかどうするんだろう・・・)

将来、治療法が発達して失明は防げるかもしれないが、それは未知。
とにかく、目が見えなくなった時に出来ない事を
今のうちにやっておいた方がいいのかなぁ、と思う。

そして、こういった風に事前に心の準備が出来る分
突然事故か何かで視力を失うよりはいいのだろうか…

そう考えている、いやに冷静で前向きな自分がいる。
しかし、この前向きさはどうなのだろうか?
いや、これが果たしてこれが前向きなのか、分からなくなる。

で、思うのだ。

人の感情の前向きと後向き。
向きは「ベクトル」で、普通のイメージだと逆方向をむいている
直線だ(イメージ1)。

しかし、それは数学上の話であって
実は人の心のベクトルは、円(サークル)となって
つながっているのではないか、と(イメージ2)。

すなわち、前向きすぎても実はマイナスだったり
後向き過ぎると、今度は逆にプラスに転じるのではないだろうか。

ベクトル横2

そう考えると、私のこの気持ちは一体どこにあるのか?
ぐるぐると回って行ったり来たり、いつも同じ方向だけに向いてけない。
前に向かっている様で、気づいたら後退していた、みたいな(苦笑)。

しかし、それが人間“らしい”のかもしれない。
(なーんて、ちょっと気取ってみました)

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治療中断の苦しい言い訳

今のところ、根源的な治療法がない糖尿病。
罹ってしまうと、基本的には一生のお付き合いになります。

「血糖コントロールが良好であれば、健康な人と同じ人生を送ることができます」
とか簡単に言っちゃってくれますが
一生涯にわたってきちんとお付き合い出来るか、難しいところです。

かく言う私も、おもいっきり治療中断をしてしまったおバカ患者な訳ですが
そこで改めて感じるのは
治療を続けていくにあったて、「環境」と言うものが非常に重要なファクターだと言う事です。
(当たり前と言えば、当たり前ですが)

誰のために治療するかって、そりゃ患者本人のためです。
だから「何があっても治療を放棄するなんてのは自分が悪いんだ!」
と言われれば、返すお言葉もございません(笑)。その通り、
治療中断してしまったら「落伍者」の様な気分になってしいます。

しかし、糖尿病の治療は
大袈裟に言うと「24時間・365日」年中無休のコンビ二状態。
コントロールすべき「血糖値」と言うものは
食事・活動量・ストレス等に簡単に左右され、上げすぎても下げすぎても駄目。
頭の中は常に
「次の食事はいつ頃、何を?」「低血糖にならないか?」「運動は?」などと考えている。
(こう言った「お付き合い」が苦にならない人もいるかもしれませんが)

例えば2型の場合、同じ生活習慣病である脂質異常症や高尿酸血症にくらべて
日常生活での負担感・生活介入度は格段に違うように思う。
(のは、自意識過剰か?)

そして、これを「社会生活を営みながら」行わなければいけない訳で。

そりゃあ病院にず~っといてれば良好な血糖値を保てるでしょう。
が、そういう訳にも行きません。人間は、社会で生きていますから・・・

そうすると
学生では「学校」が
社会人では「会社」が
どんな状態かによって、治療は左右される。

また、一緒に生活している人(家族)も重要なファクター。

そしてもちろん、通院する病院(主治医や治療内容)もです。

こういう生きている環境すべてが、「血糖コントロール」とオーバーラップします。
また、それは物質的な事だけでなく心にも影響すると思われ。

なので、その中のどこかに問題があれば「治療中断」なんて、イチコロな気がするのです。
(但し、治療中断しても生命に関わらない程度の糖尿病に限ります)
治療中断まではいかなくても、治療に前向きに取り組めない、何てザラなのでは・・・

とは言え、周りの環境が無茶苦茶でも、地に足つけて頑張っておられる方もいる。
やっぱりおバカ患者の言い訳か?
ただ、どこか一つでも「支え」があればやっていけるかもしれない。

私の場合、「会社」「家族」「病院」共に、支点なくスルーしてしまったのかも。
そして、たった一人で立ち向かう強さが無かったのだ・・・
(やっぱり自分の意思の弱さ・不甲斐なさは否定できません)

しかし、それを嘆いているだけでは始まらない。

やっぱり、誰でもない「自分の」人生なのだ。
他人のためではなく、自分のために。
一人で立ち向かえないのなら、周りの環境を整えていく。
そう言った心意気は必要だと
ダメダメ患者な私が、今更ながらに思うのである。
(遅いって?)

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ハザマな私

「私は糖尿病です」と告白した時、だいたい2通りの反応に分かれる。

「若いのに!」と言われるか
「1型ですか?」と聞かれるか、である。

当然どちらも悪意はない。
「若いのに!」と言うのはきっと
驚きと同情の様な感情からくるものだと思われる。
「1型ですか?」と言葉が出てくるのは、糖尿の知識が少しはある訳で
無いよりは有る方が、よき理解者たるかもしれない。

しかし、私はこの言葉をかけられた時
何故か気分が沈んでしまう。
不快、ではないのだが釈然としない気持ちになるのだ
長年、あまりこの感情について考えたことは無かったが、最近ふと思った。

つまりこの言葉はどちらも
「一般的な糖尿病のイメージ」が根底にある。
「若いのに!」は、糖尿病=生活習慣病=中年、と言うイメージ。
「1型ですか?」は、若年糖尿病=1型、と言うイメージ。

そして、私はそのどちらにも当てはならない
宙ぶらりんな患者なのだ。

糖尿の家族歴なし、ガリガリでもないが肥満でもない、
(発症当時)20代の2型糖尿病患者。

そう言えば発症当時の主治医は
「なぜ糖尿になったのかわからない」とつぶやいていたっけ。
血糖測定器のMRさんだって1型前提で話をされる。
技師さんからも「若いのに大変ねぇ」と言われ…

糖尿専門以外の医者にかかれば
大抵は少し間をおいた後「1型ではないのですね?」と
確認され、医者の「不可解」と言う感情が伝わってくる。

実際、どれくらいの割合でこういった患者がいるのか分からない。
思ったよりも多いかもしれないし、やっぱり少ないのかもしれない。
何にせよ、こういう事を言われる事で「私は普通とちがう」と思い知らされる。

私は今まで「普通」とか「皆と一緒」である事にこだわってきた訳ではない。
が、それは行動や生き方の領域であって、この点では
どちかと言うと個性的でありたいと思ってきた。
しかし、病気となると話は別かも。典型例、メジャー派でいい、と思ってしまう。

病院では当然、中年以降の患者が多い。
糖尿病外来では明らかに浮いている私。患者の会にも入りにくい。
反対に若い人がいても「1型かな」と思う。
そして1型向けの会にも参加出来ない。

糖尿病の中での孤立感。そして
「若いのに生活習慣病」と言うレッテルが劣等感を生む…
(20代で発症なら、10代で既に生活習慣が悪かったと言うのか?)

そう言った訳で、2通りの反応
「若いのに!」「1型ですか?」と言う言葉を聞くと
こういった感情-孤立感や劣等感-が心を駆け抜けるのだと思う。
そして、まだ糖尿な自分を受け入れられないのかも。

何を言うか!これ位の事で、と思われるかもしれないが…

これを克服するにはどうしたら良いのだろう?
何事にも動じない精神的な強さが必要だろうか。
常識にとらわれない寛容さが必要だろうか?

いずれにせよ、自分との対話が必要である。

(もっとも、最近では年齢が「若く」なくなってきたので
もう少ししたら一般的な糖尿病患者になると思うのだが)

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